朝鮮三国時代における墓制の変遷からみた「渡来」


(text only)

(埋蔵文化財研究会『渡来文化の受容と展開−5世紀における政治的・社会的変化の具体相(2)−』第46回埋蔵文化財研究集会発表要旨集、1999年

*本文の掲載にあたって、誤字・脱字を修正しました。また表記できない漢字は、カタカナで表記しています。申し訳ありませんが、図面については上記文献をご参照下さい。


目次
はじめに
1.百済地域の場合
(1)熊津時代以前
(2)熊津時代以後
2.加耶地域の場合
3.小結


はじめに

 今回の私に与えられた課題は、朝鮮三国時代の墓制を研究するものの立場から、日本列島の古墳時代中期における渡来文化の受容と展開について議論をせよ、ということであった。気軽に依頼を受けてみたものの、よくよく考えてみると予想以上に難題であることに気がついて、頭を抱えてしまった。そもそも「受容と展開」の問題は、文化の受け手の問題である。乱暴ないい方をすれば、文化の送り手側の「知ったことではない」のである。また、墓制を構成する諸要素の一部が渡来文化の産物であると判断できたとしても、その要素が、単に副葬品の一部にみられるのか、埋葬施設をはじめとする古墳の構造的な特徴にみられるのか、あるいは葬送儀礼の結果として残される棺体配置や副葬品の扱われ方などにみいだされるのかによって、その墓制における渡来文化の意味は大きく異なるのではないかと予想される。また、具体的な解釈においても、単に渡来的な要素が含まれているのに過ぎないのか、墳墓の構築や葬送儀礼に渡来人が関与しているのかの判断や、さらに被葬者自身が渡来人であるのかどうかの判定は、決して容易ではない。

 ただ、「渡来文化」という概念を、外部の集団からもたらされた、あるいはそうした集団に出自があり、在地のものとはことなる文化要素、というように拡大解釈してよいのならば、朝鮮三国時代における墓制の変遷の研究も、日本列島の墓制における渡来文化の受容・展開の研究と類似した問題を抱えているともいえる。なぜなら、朝鮮三国時代の墓制の変遷には、高句麗・百済・新羅・加耶諸国の盛衰に伴って、支配関係の変化やそれに伴う人間の移動が生じており、さらに日本列島以上に中国からの影響を受けざるをえなかったという歴史的背景が存在しているからである。そこで今回の発表では、朝鮮三国時代における新来の墓制要素の受容と展開の様相をいくつか検討し、日本列島の墓制における渡来文化の受容と展開の様相との比較を試みてみたい。具体的には、これまで私が研究を進めてきた横穴系墓室の受容と展開の様相について、百済地域と加耶地域の様相に限ってみていくこととする(図1)(吉井1997a)。

1.百済地域の場合

(1)熊津時代以前

 日本列島における横穴式石室墳の受容を考えるとき、その起源地として多くの人々が想定してきたのが、百済地域における横穴式石室墳である。しかし、王都が熊津に遷都する以前においては、百済地域において横穴式石室墳を用いた集団や階層はかなり限られていることは、以前にも指摘したことがある(吉井1993)。特にソウルの可楽洞・芳○(くさがんむりに「夷」)洞古墳群における横穴式石室墳の系統と年代問題については、韓国の考古学界では、これを漢城時代の百済古墳とみることに対しては否定的な論調が優勢なのが実状である(最近の検討としては崔秉鉉1997など)。

 ところが最近になって、百済地域における漢城時代の横穴式石室墳の存否を考える手がかりとなる新たな資料が発見されはじめている。その1例が、公州市と扶余郡の境に位置する汾江・楮石里古墳群の12〜14号墳(図4〜6)である(李南ソク1997)。これらの石室は上部構造が残存していないものの、いずれも平面方形で南壁中央に1段高く横口がつく。副葬品は、長卵形の胴部を持つ壷を中心とする土器類と、鋳造鉄斧・鍛造鉄斧・鉄鎌・鉄刀子・ミニチュア鉄器などから構成される。土器の特徴などからみて、これらは5世紀代の漢城時代の古墳であるとみていいだろう。墓制を構成する要素のうち、石室の構造は在地の木棺墓や竪穴式石室から出てくるとは考えがたく、他地域から石室構造の情報を受容した結果であると推測できる。しかし、副葬品の内容とその組み合わせは、在地の墓制にみられるものである。これらの石室は、成正ヨン(金偏に「庸」)氏のいう「汾江・楮石里類型」(成正ヨン1998、pp.129〜130)、崔完奎氏のいう「初期類型」(崔完奎1997、pp.174〜176)の範疇に含まれるもので、在地勢力が、伝統的な葬送儀礼を残しながら、埋葬施設の構造のみに「渡来」要素を受け入れた例とみるのが妥当だと考える。この石室の祖形となるものがどこにあり、どのように受容されたのかについては、今後の検討が必要である。しかし、5世紀の百済地域においては、地域や集団、そして受容時期によって、埋葬施設の構造のみを受容した集団が存在した点を指摘しておこう。また、これらの石室と北九州の横穴式石室との構造的類似性を指摘する成正ヨンの意見にも留意しておきたい(成正ヨン1998、pp.129〜130)。

(2)熊津時代以後

 熊津時代に入り、平面方形・穹窿状天井をもつ宋山里型横穴式石室墳が、王陵をはじめとして築造されることで、百済における横穴式石室墳はその広がりと性格を大きく変えていく(吉井1991)。さらに6世紀前葉には、これまでとは大きく異なる埋葬施設が百済中央勢力に受容されることとなる。それが、武寧王陵(図2)をはじめとする横穴式セン室墳である。これらの古墳に中国南朝の影響が多くみられることは、これまでの検討でも指摘されている(岡内1980・1991、小田1981など)。これを個別にみていけば、以下の通りである。

 まず、構造的特徴に関わる要素としては、埋葬施設であるセン室をあげねばならない。その構築材料であるセンについては、中国南朝墓のものと文様や形態を含めて類似していることが知られており(岡内1980・小田1981)、宋山里6号墳の羨道閉塞に用いられたセンの中にあった「梁官瓦為師矣」銘センからみて、センの製作にあたって梁の瓦(セン)を見本としたことがわかる。さらに、センは扶余井東里窯址で製作されたことが判明している(金誠亀1991、pp.99-100)。以上のことから、センの製作にあたっては、梁からの工人が「渡来」し、百済国内で製作を担当、もしくは指導したことが推測できる。さらに、セン室を築く技術をもった技術者も、百済に「渡来」した可能性は高いだろう。  次に副葬品については、黒褐釉四耳瓶・青磁六耳壷・白磁燈盞などの中国陶磁器をはじめとして、鉄製五シュ(金偏に「朱」)銭・金層ガラス玉などは、「渡来」品である可能性が高い。また、その他の遺物の多くも「渡来」品か、「渡来」技術によってつくられたものとみてよかろう。それに比べて武寧王陵には百済土器が1点も副葬されていないことも、この墓の特異性を示している。

 葬送儀礼に関わる要素については、誌石を羨道に並べてその上に鉄製五シュ銭をおき、さらに鎮墓の役割を果たしたと思われる石獣がおかれる点などに、中国南朝墓との共通性を指摘できる。また、武寧王と王妃が、羨道側に頭を向けており、羨道からみて右側に王、左側に王妃を埋葬しているのも、百済の2人並列葬においては特異であり、中国からの新たな影響であった可能性がある(姜仁求1979、吉井1997b)。

 以上のように、武寧王陵をはじめとする横穴式セン室墳は、埋葬施設の構造・副葬品の内容・出土状況からみる葬送儀礼の様相、といった全ての面にわたって、中国南朝の要素がみいだされる。その内容は、「中国南朝からの亡命貴族の墓」といってもおかしくないほどである。しかし誌石の内容から、この墓の主が武寧王とその王妃であることはまちがいない。つまり、「渡来」要素が多いといって、被葬者が「渡来人」であるとは即断できない、ということになる。武寧王陵をはじめとする横穴式セン築墳が百済に受容された意義は、百済における「渡来」文物を積極的に受容しようという姿勢と、受容を可能とする諸基盤の存在を無視しては、正しく評価できないのである。

 それでは、セン室墳の構築に関わった「渡来人」は、その後どうなり、どのような墓に葬られたのだろうか。セン室墳が完成してから中国に帰った可能性も十分あるわけだが、そのまま百済に残ったとしても、彼らが武寧王陵と同様のセン室墳を築造しえたとは考えがたい。むしろ考古学的に認識できる墓を築きえたかどうかが問題になろうが、ここで想像をたくましくすることが許されるならば、扶余楮石里1号墳(図7)(扶余文化財研究所1992)のような竪穴式セン槨墳などは、その候補になりうるかもしれない。

2.加耶地域の場合

 加耶地域(本発表では、洛東江以西地域を指す)において横穴式石室墳がどのように受容され展開するのかについては、不明な点が多い。ただ、6世紀中葉以降、この地域が新羅化するなかで急激にその広がりが確認される横穴式石室墳が出現する以前に、おそらく百済の影響において出現したと思われる横穴式石室墳が存在する。これらを石室構造と分布域からみると、晋州・咸安などに広がる1群と、高霊を中心として広がる1群に大分できそうである。

 晋州・咸安周辺に広がる1群には、玄室の幅:長が1:3程度と細長く、中央に羨道がつくものが多い(図8・9)。中央羨道の出自が問題となっているが、従来の竪穴式石室に羨道がつけられた折衷的な構造であることについては異論がないようである。副葬品をみると、在地の土器以外に、高霊系の土器が伴う場合がある。また水精峯2号墳では百済系の可能性がある銅椀が出土しており、玉峯7号墳からは、銅椀写しの土器が出土している(定森他1990)。葬送儀礼の関係としては、釘や鐶座金具の出土から、百済の横穴式石室墳と同様、釘で緊結され鐶座金具をもつ木棺(吉井1995)が採用されていることがわかる。また、水精峯2号墳では、二人並列葬がおこなわれた可能性が高い。  高霊周辺に広がる1群(図10〜12)は、玄室の幅:長が1:2以下のものが多い。なかには横穴式セン室墳を模倣したと思われるような構造をもつものがあり、それらの中には、石室構築にあたって、百済からの技術者の派遣があったかもしれない。さらに、高霊古衙洞壁画古墳(図12)(金鍾チョル1984)のように、扶余東下塚と同様の壁画が描かれている例では、画工の派遣も考えられるだろう。副葬品や出土遺物については、銅椀(陜川苧浦里D−T−1号石室(図11)(尹容鎮1987))や棺釘・鐶座金具の出土例などに百済的な要素がみてとれる。

 ここで、副葬品にみられる「在地」要素と「渡来」要素の混在状況をよく示すのが、陜川玉田M11号墳(図10)(趙栄済他1995)である。この古墳の場合、盗掘をうけて副葬品の全容は明らかではないが、百済系(耳飾り、鐶座金具、釘など)、新羅系(土器、金銅製沓)、在地系(有棘利器の鳥形装飾)など、複数の文化要素が混在している。玉田古墳群は、これ以前の古墳でも、複数の文化要素が頻繁に入れ替わりながら混在する特徴をもつ。しかし、その立地状況からみて、これらの古墳はこの地域を支配した首長の代々の墓である可能性が高い点を注意しておきたい。

 以上のように、加耶地域における横穴式石室墳の受容においては、百済的な要素がかいまみられるものの、在地的な要素や新羅的な要素も混在する様相がみてとれる。これは、新羅と加耶の間で翻弄される当時の状況を反映しているのかも知れない。ただ、そのなかで葬送儀礼に関わる要素、特に釘や鐶座金具を用いた木棺の使用は、急速に受容されていったようである。このことは、従来は釘や鎹を用いた木棺を持たなかった小型の竪穴式石槨でも釘を用いた例がみられる(図13)ことや、新羅的な石室が出現した後でも釘や鐶座金具の使用がみられることでも傍証できよう。

3.小結

 以上、百済地域と加耶地域における横穴式石室墳受容の様相を概観した。今回紹介した例からみると、新たな墓制を受容する際には、必ずしも伝わった要素を全て取り入れるとは限らず、従来の墓制との関係から取捨選択が行われたことがわかる。その一方で、受容した「渡来」文化の要素が多いからといって、あるいは葬送儀礼のような観念的な要素の受容が先行しているからといって、その被葬者を「渡来人」とは安易に断定できない、ということもいえそうである。こうした立場から分析を進めれば、報告書をはじめとして多くの人々が被葬者が渡来人である可能性を指摘する高井田山古墳(図3)の場合もでさえ、被葬者の出自についての判断が躊躇されてしまうのである。このように、渡来人の存在を推定するためには、古墳にみられる渡来系要素だけで確定することは容易ではなく、その他の情報(文献記録、同時代の集落の様相など)を突き合わせた上での、慎重な判断が必要なのではないだろうか。

 むしろ、墓制にみられる「渡来」文化の様相から読み取れるのは、「渡来」文化や「渡来人」に対する受容者側の姿勢なのではないか。そして、「渡来」文化の受容・展開の様相に対する意義づけをおこなうための比較材料としてこそ、朝鮮三国時代における墓制変遷の様相が参照されるべきだと考えるのだが、いかがであろうか。

参考・引用文献((韓)は韓国語文献)
姜仁求1979「中国墓制が武寧王陵に与えた影響−風水地理的要素−」『百済研究』第10輯、忠南大学校百済研究所(韓)
金誠亀(亀田修一訳)1991「扶余の百済窯跡と出土遺物に対して」『古文化談叢』第26集、九州古文化研究会
金鍾 1984『高霊古衙洞壁画古墳実測調査報告(啓明大学校博物館遺跡調査報告第2輯)』啓明大学校博物館(韓)
扶余文化財研究所1992『扶余楮石里古墳群』、扶余文化財研究所学術研究叢書第3輯(韓)
徐聲勲・申光燮1984「表井里百済廃古墳調査」『中島』X、国立中央博物館(韓)
成正ヨン1998「錦江流域4〜5世紀墳墓および土器の様相と変遷」『百済研究』第28輯、忠南大学校百済研究所(韓)
尹容鎮1987『陜川苧浦里D地区遺跡(慶北大学校考古人類学科調査報告書第4冊)』、慶尚南道・慶北大学校考古人類学科(韓)
李南ソク1997『汾江・楮石里古墳群』、公州大学校博物館(韓)
趙栄済・柳昌煥・李瓊子1995『陜川玉田古墳群XーM10・M11・M18号墳(慶尚大学校博物館調査報告第13輯)』、慶尚大学校博物館(韓)
趙栄済・朴升圭・柳昌煥・李瓊子・金相哲1994『宜寧中洞里古墳群(慶尚大学校博物館学術調査報告第12輯)』、慶尚大学校博物館(韓)
崔秉鉉1997「ソウル江南地域石室墳の性格」『崇実史学』10、崇実大史学会(韓)
崔完奎1997「錦江流域百済古墳の研究」、崇実大学校大学院博士学位請求論文(韓)
東潮・田中俊明1989『韓国の古代遺跡』2百済・伽耶篇、中央公論社
岡内三真1980「百済・武寧王陵と南朝墓の比較研究」『百済研究』第11輯、公州大学校附設百済文化研究所
岡内三真1991「その後の武寧王陵と南朝墓」『百済文化』第21輯、公州大学校附設百済文化研究所
小田富士雄1981「南朝セン墓よりみた百済・新羅文物の源流」『九州文化史研究所紀要』第26号
小田富士雄1991「日本における武寧王陵系遺物の研究動向」『百済文化』第21輯、公州大学校附設百済文化研究所
柏原市教育委員会1996『高井田山古墳』
亀田修一1993「考古学から見た渡来人」『古文化談叢』30、九州古文化研究会
定森秀夫・吉井秀夫・内田好昭1990「韓国慶尚南道晋州水精峯2号墳・玉峯7号墳出土遺物−東京大学工学部建築史研究室所蔵資料の紹介−」『京都文化博物館研究紀要 朱雀』第3集
朝鮮総督府1916『朝鮮古蹟図譜』第三冊
吉井秀夫1991「朝鮮半島錦江下流域の三国時代墓制」『史林』74巻1号、史学研究会
吉井秀夫1993「百済地域における横穴式石室墳の展開と伝播」『古墳時代における朝鮮系文物の伝播』、埋蔵文化財研究会・関西世話人会
吉井秀夫1995「百済の木棺」『立命館文学』第542号、立命館大学人文学会
吉井秀夫1997a「横穴式石室墳の受容様相からみた百済の中央と地方」『百済の中央と地方(百済研究論叢第5輯)』、忠南大学校百済研究所(韓)
吉井秀夫1997b「百済横穴式石室墳の埋葬方式」『立命館大学考古学論集T』立命館大学考古学論集刊行会
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