思いつき・思いこみ

第10回 「捏造事件」に思う
−韓国での報道に接して−

 上高森遺跡などを舞台とした捏造事件が報道されてから、はや1ヶ月になろうとしています。この間、いくつかの考古学関係サイトは、管理人の方々の対応が大変だったようですが(しかし、そうしたご苦労のおかげで、いろいろ勉強することができました。感謝いたします)、私のホームページのアクセス数も、一時、通常の2倍以上(といっても、一日50件程度でしたが)を記録。アクセス数の急増の少なくとも一部には、考古学関係のサイトを名乗る以上、今回の事件をどのように考えているのか、という厳しいまなざしが含まれていたはずです。言い訳になってしまいますが、ちょうどそのころ、睡眠時間を削って韓国語の原稿を仕上げていて心身共にふらふらだったところに、報道の衝撃が加わり、とりあえず更新記録に簡単なコメントをのせるのが精一杯でした。無事、原稿も仕上がり、個人的な考えもまとまってきたので、遅ればせながら、この場を借りてとりあえずの意思表明をしておきたいと思います。ただ、このホームページの趣旨もあり、韓国との関わりの視点から話を展開していきたいと思いますので、その点、ご了承下さい。

 私が今回の事件を知ったのは、11月5日の夕方のテレビ報道です。実は、数年前に藤村氏の発掘があやしい、といううわさをどこかで聞いてきた学生が、研究室で自慢げに話すのを聞いたことがありました。その時に私は、「かくたる証拠もなしに、そうしたいい加減なうわさ話を言いふらすものではない」、と彼をたしなめた記憶があります。その「かくたる証拠」が、決定的な写真として目の前に突きつけられたわけで、しばらく茫然自失の状態が続きました。報道が一段落しつつある今の段階になっても、結局「捏造」の実態については、具体的に何も明らかになっていないし、それを判断するだけの情報も非常に限られている、という感をぬぐうことはできません。具体的な疑問点について、ここで詳述することは避けますが、藤村氏の個人的な責任を責めるだけではなく、直接関連された方々により、具体的な経緯を検証がなされ、それが公表される必要があることを忘れてはいけないと考えます。

 ただ、今回の問題の深刻さは、すでにいろいろの方が指摘されているように、考古学全体の信頼、あるいは社会における考古学の位置についての根本を揺さぶる諸問題が、この事件をきっかけとしてあらわになったことにあるでしょう。そうしたもののうち、考古学の方法に対する不信感については、きちんとした説明を続けていくことによって、ある程度の理解は得られるかもしれません。しかし、より長期的な問題として、これまで考古学者が、その研究成果を社会にどのように還元してきたのか、そして現在社会とどのような関係を切り結んできたのか、ということをこの際、真剣に再検証しなければならないのではないかと思うのです。

 そうした考えを抱くにいたったきっかけの1つが、韓国における今回の事件の報道でした。日本のマスコミによっても紹介されましたが、今回の事件は韓国でも大々的に報道されたようです。我が家にも義兄から、「おまえもそんなことやっているんじゃないだろうな?」という電話がかかってきて、妻と反響の大きさを再確認させられました。ただ、そこで気になったのは、日本人の歴史観の問題点や、教科書問題との関係が述べられた、という韓国での報道姿勢でした。日本人の歴史観についての問題点は、特に教科書問題を通して韓国のマスコミが何度も取り上げてきています。ただ、今回の場合は、これまでよく問題にされてきた近現代史ではなく、旧石器時代についての問題なので、それがどのように批判されているのかが気になりました。また、どうして教科書問題と関係づけられるのかがよく理解できませんでした。そこで、インターネットを通して入手できる記事を集めて読んでみることにしました。

 その結果わかったことの1つは、今回の場合、事件の経緯はかなり正確に報道されていた、ということです。これは恐らく、今回の事件の舞台やそれが直接影響を与えた範囲が、とりあえず日本国内であったために、日本から配信された記事以上のことを書くことが難しかった、ということがあったのかもしれません。その反面、解説部分では、捏造自体よりも、捏造を見抜けず、その成果が無批判的に教科書掲載されることまで許した日本史学界に対する批判に重点が置かれていました。記事の事実関係にやや難がある点や、感情的な面がやや表にでがちである点を差し引いても、むしろ韓国における今回の報道は、問題点の核心をかなりついていたように思います。

 もう1つわかったのは、今回の事件と関連づけて報道された教科書問題というのが、抽象的な問題ではなく、『国民の歴史』を出版したグループによる中学校用日本史教科書の製作、および教科書検定への申請に対する具体的な問題であることです。この教科書についての情報は、私も断片的なことしか把握できていません。ただ、韓国併合を合法的なものと記述するなど、これまでの教科書問題での争点だけでは済まないような、非常に深刻な内容を含んでいることはまちがいありません。この問題は、9月ごろから韓国のマスコミで取り上げられていたので、捏造事件の報道に際して両者の関連性について言及があったようです。

 こうした報道のあり方については、教科書問題と捏造事件は全く違う、という意見もあるでしょう。事実、朝鮮日報に掲載されたあるコラムでは、両者を関連づけた報道に対して、日本のある記者から抗議を受けた話が紹介されていました。しかし、学問的な見地からきちんとしたチェックや議論がされぬまま、教科書の内容が書き換えられていた、あるいは書き換えられようとしている、という点において、この2つの問題は共通する部分が多いのも確かなことです。また、捏造された発掘成果を無批判に教科書の記述に反映させてしまった経緯について、私を含めた考古学者は、いまだに十分な説明ができていないように思います。そして、『国民の歴史』の記述に対する考古学者の責任問題についての言及も、他の歴史学界の動きに比べて低調なのではないでしょうか。こうした現状を省みないまま、韓国での報道のあり方を一方的に批判することは、少なくとも私にはできません。

 捏造事件に限定して考えてみても、「最古」の石器や人類、というロマンに酔ってしまって、研究者として当然おこなうべき検証・批判を怠ってきたことが、こうした問題が起こることになった原因の1つではなかったかと思います。太古へのロマンは、考古学者が地味でつらい研究を進めていくための、貴重な原動力の1つです。また、太古へのロマンをかき立てるような新発見を強調することは、遺跡の保存や活用をよびかけるため、あるいは考古学の成果を社会的に還元していくうえでの1手段としては有効でしょう。しかし、そうしたことに重点を置きすぎると、考古学者は本来の研究目標を見失うばかりではなく、結果としてナショナリズムなどに荷担していくことになりうる危険性が生じてくるのではないでしょうか。今回の韓国での報道を通じて気づかされた問題点にどのように答えていくかは、私にとって当分大きな課題となりそうです。

 ちなみに、学界関係者としては、ソウル大学のイ・ソンボク先生(ご本人も2度、上高森遺跡を見学され、関係者もご存じだとのことです)が、事件発覚直後に韓国考古学会のホームページ上で、的確な論説をされておられます。日本側の当事者が沈黙を守っているのとくらべ、感服させられました。また、先述の朝鮮日報のコラムでは、韓国での報道の問題点も指摘すると共に、藤村氏がアマチュアだからということで批判されることの不当性にも言及されていました。日本での一部報道のひどさに内心憤慨していただけに、ほっとさせられた次第です。

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